大判例

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最高裁判所大法廷 昭和28年(オ)389号 判決

上告人 山野俊一〔仮名〕

右親権者母 山野由子〔仮名〕

右訴訟代理人弁護士 奥村文輔

被上告人 検事総長

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の担負とする。

理由

論旨第一点及び第二点は単なる法令違反の主張であり(民法七八七条但書の解釈に関する原判示は正当である。なお、民法一六一条は時効の停止に関する規定で、これを本件のごとき除斥期間に類推適用することはできない。また所論「認知の訴の特例に関する法律」は、父又は母の死亡の時期が容易に判明しない同法所定のごとき場合に民法七八七条但書の規定を適用することは妥当を欠くものと認めて、特別の規定を設けたのであつて、本件のごとく父の死亡の時期は明らかで、ただ、訴訟代理人の死亡に伴い出訴期間を経過した場合にまでこれを類推適用することはできない。)、「最高裁判所における民事上告事件の審判の特例に関する法律」(昭和二五年五月四日法律一三八号)一号ないし三号のいずれにも該当せず、又同法にいわゆる「法令の解釈に関する重要な主張を含む」ものと認められない。

同第三点中憲法一三条違反を主張する点は、認知の訴提起の要件をいかに定めるかは立法の範囲に属する事項であつて、法律が認知の訴の提起につき、父又は母の死亡の日から、三年を経過した場合はこれをなし得ないこととする規定を設けたことは、身分関係に伴う法的安定を保持する上から相当と認められ、何ら憲法一三条に違反するものではない。また、憲法一四条違反を主張する点は、民法七八七条但書の規定は、認知の訴の提起に関し、すべての権利者につき一律平等にその権利の存続期間を制限したのであつて、その間何ら差別を加えたものとは認められないから、所論は前提を欠き、上告理由としては不適法である。

よつて民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 栗山茂 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 垂水克己)

○昭和二八年(オ)第三八九号

上告人 山野俊一

右親権者母 山野由子

被上告人 検事総長 佐藤藤佐

上告代理人弁護士奥村文輔の上告理由

第一点 原判は其理由に於て「出訴期間の経過は出訴当事者の故意や過失を要件としない」ことを前提として元来適法に出訴された本訴請求を却下した第一審判決とその儘維持したことは法令に違背したものであるから破毀は免れない。

原審が理由中に於て認めた事実は「控訴人は昭和二十二年四月十六日に生れ山野由子の子として出生の届出のあつた事実が認められ、同じく甲第三号証によると本訴に於て控訴人の父と主張せられる益田二郎は昭和二十三年二月九日に死亡した事実が認められ、更に本訴が昭和二十六年十一月二十六日に提起せられたことは本件記録に徴し明かなので本訴は右益田二郎の死亡後三年を経過してから提起されたものである。

次に真正に成立したと認められる甲第四、五号証第六号の一乃至三による控訴人は右益田二郎の死亡後三年を経過せない間に本訴と同様な認知請求の訴を原審京都地方裁判所に提起し右は同庁昭和二十六年(タ)第八号事件として繋属したところの訴訟は昭和二十六年四月七日の口頭弁論期日に当事者双方不出頭のため休止となり、控訴人の訴訟代理人であつた弁護士請川福太郎が期日の指定申請をしないで死亡したゝめ同年七月七日を以て休止満了となつた事実が認められるのであるが、しかし乍ら本件の如く出訴期間の徒過につき当事者に何等故意過失なき場合にまことに同情すべきである」が法律上救済すべき余地は認められないと為すは単に法律を形式的に解釈したるに過ぎず時代の進運に追随し得ざる立法を補う法解釈(司法)の使命をおろそかにするものである。法に涙ありとは法解釈を司る裁判官のとるべき倫理である。

子の認知請求の出訴期間の如く行為期間を徒過すると其後に於てその行為をする権利を失う不利益を受ける場合その徒過がその当事者の責に帰し得ない事由に基く時は何等の救済をも受くることが出来ないならば、その当事者に余りにも苛酷であると言わざるを得ない。為に法は古くより例えば民事訴訟法上不変期間の原状回復(民訴一五九条、例、上訴の追完)の規定を設け或は出訴期間には時効の規定中停止に関する規定殊に民法一六一条は之を類推適用すべしというのが通説である。即ちその期間の懈怠に主観的責任なき以上之れが救済の道を考慮したのである。

本件出訴期間の徒過につき原告に何等其責に帰すべき事由が存在しない事は原審の肯認するところである。しかるに期間の徒過について上告人に回復し得ざる不利益を与える事は余りにも苛酷であり殊に其親子関係の確認という人倫の大道に関することの性質上救済の方法がなければならないと信ずる。

民法解釈の本旨として個人の尊厳が強調されているは民法第一条ノ二の明示するところであるが故に出訴期間懈怠の救済についても何等責任のない「子」個人の尊厳を守るため前示原状回復の法理を援用し子の認知請求についての出訴期間に於ても認知請求権の原状回復が許さるべきである。

本件と同趣旨の認知を請求した京都地方裁判所昭和二十六年(タ)第八号事件は民法所定の出訴期間内に提訴したることは明らかであり、本件は前記(タ)第八号事件が原告の責に帰せざる事由により休止満了になりたるを知り遅滞なく再訴に及びたるものであり、実質上これを継続したるものと看做すべく且原状回復の法理より本件は民法所定の出訴期間を徒過したる後提訴したるものと看做すべきでないと主張するものである。

第二点 原判決は控訴人の「認知の訴の特例に関する法律を類推解釈して本件に適用すべきである」との主張を排斥する理由として「同法はその所定の特別の場合に限り適用せらるゝ取扱規定であつて類推解釈して本訴に適用する余地がない」とされた。

右は類推解釈と言う事それ自体を誤解した結果によるものであつて、本件に類推解釈が不能であるとした点は、重要な法律の解釈を誤つたもので法令の違背あり破毀を免れない。

法の類推解釈とは演繹解釈の如く一般から個々に下るのでもなく、帰納解釈の如く個々より一般に達するのでもなく個々より他の個々に推し及ぼすのである。即ち一つの法の規定ある場合其規定せる事項とは異れる種類に属する事項なるもその須要なる点に於て類同性を有する場合に此の規定より推し及ぼして斯の如き事項に就いても法は同じ様に規定せるものとして此の規定を適用する事である。

「認知の訴の特例に関する法律」の立法趣旨は戦争其他の災害によつて、即ち自らの責に帰せざる事由によつて民法所定の出訴期間を失つた不幸な子供達に人倫の大道よりみて救済すべき道を与えたものであることは争のないものであり、その事例の須要なる類同性は当事者の主観的責任の欠除(責に帰せざる事由による期間の徒過)であることは又明かな点である。しからば本特例法を類推適用し本件の如き原告に何等期間徒過の責任なき場合をも律すべきであることは当然である。原審判決は同法は其所定の特別の場合に限り適用をせられる取扱規定であつて類推解釈して本件に適用する余地がないと判示されたが民法第一条ノ二「本件ハ個人ノ尊厳ト両性ノ本質的平等トヲ旨トシテ解釈スベシ」とある個人の尊厳と両性の本質的平等に反するか否かを検討し右原則に合致する以上類推解釈が許されねばならない事が民法の大理想でなければならない。偏狭な演釈論理のみが法解釈の基準ではない。

要之「認知の訴の特例に関する法律」の重要なる法意は子又は法定代理人の故意過失によらずして実際父が死亡した日より三年を経過してしまつても「子の認知」と言う事柄の性質上之を許さるべきとしたもの、即ち今日認知の訴は意思表示を求める給付の訴でなく、その判決は実際上の親子関係が存在すると言う認定に基いて法律上の親子関係を形成する訴だとされる学説(事実主義)に深くその基礎をもつものであつて、要之民法七百八十七条但書の規定が出訴期間の徒過について法定代理人の故意過失をも問わないことを否とするに外ならない本件事実については全く上告人の法定代理人の故意過失によらずして前示認知請求事件が取下と看做されるに至つたのであるから、法定代理人が其取下の事実を知つた時から三年以内で死亡の時より十年を経過しない間に再び提起した本件認知請求の訴は認知の訴の特例に関する法律を右の如く解したことを類推適用し本案について審判を開始すべき充分な理由があると信ずる。

本件の如く正当な客観的親子関係が存在しながら、民法所定の出訴期間の定めを形式的に解釈し原告をして「父なし児」よ「私生子」よと世間より蔑視をうけしむる事は余にも酷であり、子個人の尊厳を無視するものである。個人の尊厳を旨とし民法を解釈する以上民法の特例法の規定する事例と須要なる点に於て類同性を有する本件事案に対し前示特例法を類推すべき事は当然である。本件は前訴休止満了の日より三年以内で且父死亡の日より十年を経過せざる期間内に提起されたものである以上「認知の訴の特例に関する法律」を類推適用し当然出訴期間の懈怠なきものとして本案について審理すべきである。

第三点 原審判決は上告人の原審に於ける民法第七百八十七条但書は憲法違反であると主張したに対し右但書は合意であると判示された。しかし乍ら右は憲法の解釈に誤りがあり到底破毀を免れないと信ずる。民法七百八十七条但書の規定は日本国憲法に違反し無効であり、従つて認知請求事件は父死亡後と雖も期間の制限なくこれを提起し得るものと信ずる抑々親子関係法規(以下親子法と言う)が家のため、親のための法規である間は親子法は支配権的親権を中心とするので親子関係の発生も家の関係、親の意思によつてのみ定められ従つて子よりする認知の請求は許されないものとされていた。私生子認知即ち婚姻外の父子関係の成立を父の意思のみに懸らせる主観主義認知制度は家のためには都合がよいが子とその母にとつては悲慘の極みであり、従つて文化の発展に応じ子のための親子法への段階に入ると親子関係の発生も家の関係や親の主観的な意思によつてでなく、親子の自然的血統によつて客観的に決定される様になつて来た。

二十世紀の法律文化は既に子のための親子法の段階に入つていることはドイツ法系、フランス法系を問わず現代法律文明を有する諸国の家族法に於ては例外なき現状である。従つて認知の性質についても家のため、親のための親子法の時代に於ては親子関係の発生を欲する親の意思表示として主観主義的見地がとられていたが、現在では子である事実を認める観念表示と考えられるようになつて来て居り、又認知請求権の行使(強制認知)も親の意思表示を求める給付の訴と考えられていたものが親子関係の存在を確定する確認の訴と解されるような客観主義認知法の時代となつたのである。

翻つて我が民法上認知制度につき顧れば、明治六年太政官布告二十一号は主観主義認知制度を鮮明にし子は認知の請求が出来なかつたのであるが、明治三十一年制定の民法はその第八百三十五条に於て子の認知請求権を認め婚姻外親子関係の発生について主観主義から客観主義への架橋をなしたものであつたが判例は認知の訴は、あく迄も給付の訴であると解して来た。しかしその間意思無能力者に対する認知の訴をも許し、次いで昭和十七年の民法(改正昭和十七年法律第七号)で親の死後三年間は死後認知の訴を許し、更に昭和二十四年法律第二百六号をもつて認知の訴について特別の事情ある時は親の死後十年迄認知の訴を許容するに至つた。これによつて子よりする認知の請求は給付の訴ではなく自然的血縁関係に基き親子関係を確定すると言う確認の訴と解されるに至り、これによつて主観主義から客観主義への移行が一層明確となつた訳である。しかし客観主義認知法子のための認知法の立場からは単に親の死後三年間に限り認知の請求をなし得るに止らず、無制限の強制認知制度が採用されなければならないことは事の性質上現在の法律文化の要求するところである日本国憲法が自然法の原理に基いて制定されたことは明かであつて、その第十三条に於て個人の尊重と幸福追求を保障し第十四条に於て国民の法の下の平等を規定している。親子法が子のための親子法であることは明かに自然法思想に立脚するものであり、たゞ伝統的な個性の強い親族関係であるが故に現実には本来の姿が伝統の悪弊により革められないのである。しかし乍ら現憲法下では、かゝる制約は許されないものであつて、親子法も子のための親子法であり認知も客観主義認知法によつて規正されなければならないことは当然である。親が認知の意志表示をするのではなく親子関係存在と言う事実によつてのみ親子関係が成立すると言わねばならないのである。民法第七百八十七条但書は憲法改正前の旧民法第八百三十五条但書をその儘継承したものであるが真に客観主義認知法であるならば、かゝる但書は無用であるのみならずかゝる但書で認知請求権の行使を制限するのは違憲である、真の親子関係が存在しながら単に親子関係が存在しながら単に親が死亡して三年を経過したということで親子関係が認められないことは子としての地位を認めないものであり、婚姻外に出生したことに何等罪のない子が真の親に対し子と認め得られないことは子個人の尊重をないがしらにするものであり、子が真実の親を親と呼びえないことは自然法の原理に基く近代文明からも実に子として、あまりにも悲劇であり親のない子としてその子の一生の幸福を阻害するものであつて憲法第十三条に明かに反するものである。

又かゝる出訴期間を自己の責に帰せざる理由により失つた場合自己に何等の責任がないのに、実の親を親と呼び得ないのは認知請求をなしうる場合に比して著しく平等を欠くものであつて、これ又憲法第十四条の法の下の平等に反するものといわねばならない。

民法第七百八十七条本文は何等親の生死を明示していないことは、その文面上明かでありたゞ認知請求が給付の訴であると解釈されたから、その但書の存在価値があつたにすぎない。現在の如く認知請求が確認の訴と解釈されるときは却つて前述の如く憲法に反するものとして有害な地位を占めるのである。又但書が無効であるとするも人事訴訟手続法第三十二条第二項もこの点何等支障を生じないのである。かゝる見地より民法第七百八十七条但書は日本国憲法下客観主義認知法の精神に反し且憲法第十三条、第十四条に明かに違反し同第九十八条により無効であると断じなければならないのである。

よつて本訴は出訴期間に関する訴訟要件について何等の欠缺もないのであるから、当然本案につき審判せらるべきものであると主張するのである。繰返して述べれば民法第七百八十七条但書が日本国憲法に反する否かの判断の前提をなすものは子の認知の訴の性質が確認訴訟であるか給付訴訟であるかの判断にあると言わざるを得ない。旧時判例は給付訴訟を採つて来たが原審に於て控訴人が主張したる如く認知請求訴訟は親子関係確定の確認訴訟と理解されなければならないのである。確認訴訟であれば親の生死、能力の有無に拘らず客観的親子関係が存在すれば認知が許されなければならない従つて前記但書は存在価値を失うものである。旧時判例は給付判決説を採用していた為その認知の意思を求め得ない特例の場合として死後認知が許される規定を特に設ける必要が生じ旧民法第八百三十五条但書として昭和十七年に前記但書が生れたものである。

原審判決は其理由に於て「認知の訴及について期間の制限を加えない時は認知請求権の濫用の弊害を生じたり或は父又は母が死亡してから長期間の経過後出生の時に遡及して効力ある認知のなされる時は親族法上身分関係の変動に基き生じる各種法律関係の安定した社会生活を脅かして公共の福祉を害することになるのでこれら権利の濫用や公共の福祉に反する権利の行使を防止するための立法は許さるべきであり民法第七百八十七条但書は何等違憲ではない」旨判示された。しかし右は上告人の主張に寸毫も耳をかさない切捨御免の判決であつて、上告人の承服出来ないものである。具体的に或訴が認知請求権の濫用だと判定し得れば受訴裁判所は之を棄却するであろうし、長期間経過してから出生の時に遡及して効力を生ずる認知が行われそれがため親族相続法上の身分関係に変動が生じこれがため更に各種の法律関係に変動が生じることは父又は母が現存すると既に死亡したると何等差異があることなく、まして父又母死亡後三年後にこの訴の提起を許すことがそれ程社会生活を脅かして公共の福祉を害するものとは考えられないのである。

民法七百八十七条但書制定の歴史は前述の通り強制認知についての基本観念が主観主義から客観主義への移行を表わすものであつて決して原審判決の言う如く父母死亡の日から三年を経過するものに対しては、公共の福祉に反するものとしてその訴及を防止しようと意識したものでないと信ずる純粹客観主義の立場にたつ以上、即ち事実主義に基く以上客観的な親子関係の確認と言うことは、個人の尊重、幸福追及の点より基本的人権保障の一つの場合としてこれを無制限に許すべきであり、これを三年間に制限することは全くその根拠のないものである、やがては立法府に於てもこれが改正をもたらすであろうと信ずる。されば上告人は法解釈は必ずしも制定法の文理的解釈にかゝわることなくその「法」の歴史的、実際的、社会的、学理的立場にたつて所定の立法手続によらないでも実定法の意味、内容をして正義の要求に応じて裁判所はよろしく英断以て民法七百八十七条但書は違憲であるとの判断を下すべきであると信ずる。

次に原審判決はその理由に於て更に「法律上の親子関係の発生を目的とする創設の訴である認知の訴の提起について右の様な差別なくすべての権利者に対し一律に制限を加える法条は決して右憲法第十四条に反するものでない」と判示されたが右は上告人の主張を誤解しているのである。原審判決は父又は母死亡の日から三年を経過したものゝすべてに対し認知請求の訴及を一律に制限したのであるから平等の規定に反しないとの見解を示されたが上告人は前述の通り親子関係の存在の確定という権利は父又は母生存中であろうと死亡後三年未経過であろうと三年経過後であろうとこれを同様に法律で平等に保護すべきであると主張し、これについて差別を設けることは憲法十四条の保障に反すると主張してやまないのであつて、殊に認知の訴の特例に関する法律の制定せられたる今日民法七百八十七条但書を原審判決の如く考えて本件認知請求訴訟を却下した第一審判決をその儘認容した原審判決は上述の如く結局憲法並に其付属法令の解釈を誤つたものであるから速かに破棄の上更に相当の裁判を求める次第である。 以上

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